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「創造談議・北九州 VOL.5」 対談内容公開

「黒田征太郎さんが北九州にやってきたわけとは・・・」

対談 黒田征太郎×佐木隆三

日時 2009年4月13日(月)
18時30分~21時30分
会場 ブリックホール(旧サッポロビール醸造棟内/北九州市門司区)
主催・企画 特定非営利活動法人 創を考える会・北九州

ニューヨークを活動拠点に15年暮らし、昨年末帰国された黒田征太郎さん。今年1月、国内外に向けた活動の新たなる拠点として北九州市を選ばれました。特定非営利活動法人 創を考える会・北九州の理事である作家、佐木 隆三さんが、黒田さんに「北九州」に感じた魅力、ライフワークとして国内外で展開されている「PIKADON」プロジェクトなど今後の活動についてお話を伺いました。なお、黒田さんと佐木さんは作家野坂昭如氏とのご縁で知り合われ40年来の間柄でいらっしゃいます。
ここでは、対談の内容を公開いたします。


対談 黒田征太郎×佐木隆三

佐木: ちょっと僕はビックリしたんですけども、本当に何故門司港なんですか?

黒田:  あの、自分も本当にビックリしてるんです。少しだけ一分だけ、自分と、黒田と佐木さんの関係をちょっと言いますと、すごい昔にお会いしたんですね。僕がすごく敬愛する色んな影響を与え続けて頂いています野坂昭如さんの紹介で。野坂さんが年で言うと一番上で、佐木さんがおられて、それで、ちょっと若い僕がいる。だから、何でも正直に告白いたします。

それで、何故門司港かというと、僕も分からないです。てっとりばやく言いますと、15年くらいニューヨークというなんだかわけわからん街におりまして、まだ尻尾は向こうに残しているんですけども、色んなことありましてね。これは、愛情込めての言い方ですから、誤解はして頂きたくないんですけども、毛唐とですねケンカばっかりしてたんですよ、いろんな意味で。それもまあ飽きたし、埒も明きませんし、で、自分自身の年齢で言いますと、あっと言う間に70になりまして、で、まあトラック競技で言うと残りの直線コースかな、じゃあ、もう好きなことやってやろうと思いまして、日本に帰って来ようと。

最初、上海にしようかなと思ったんですね。上海に40日くらいいて、その次にソウルかなと思ったんですけども、やはり日本かと。日本で言ったら、東京は嫌いなんですよ。昔から。馬鹿かと東京は、思うんですね。大阪は生まれ故郷で好きなんですけども、今の大阪は東京の真似ばっかりしとる。で、大阪に帰ったらケンカばっかりになるのも心楽しくない。そしたら、北九州かなあと。海峡ありますし、朝鮮半島もすぐそばだし。

北九州は、僕が勝手に思うんですけども、博多の人今日来てるんですけどごめんね。博多も東京の真似しとるけんね。北九州は、僕何かちょっと違うんちゃうかなと。知りませんけれども。それで、佐木氏以外で縁のある眞鍋に、まずトランク1個送りつけておいて小倉に来ました。以上です。

佐木: それで、門司港駅の近くにお住まいを定められたと。

黒田: はい、門司区役所の隣にマンションを買って...。マンションの名前知らないんですけど、自分で住んどっても。携帯も最近持たされて、自分の携帯番号も知らんような、アホなんですね。今、そこの5階に住んでおりまして。その前は、小倉北区砂津のウィークリーマンションに1ヶ月か2ヶ月ぐらいいました。

佐木: 何故門司港を選ばれたんですか?

黒田: これまた凄いええ加減なんですけどね。北九州で、海峡が見えて、貨物船がしょっちゅう見れりゃあ、そこでいいやと思ったんですね。贅沢か分からないですけど、四畳半でも何でもいいですけど。僕は住まいとか住むところとか、ほんまにどうでもええと思ってる人間なんですね。大きいとこはほんまは嫌やなあと、掃除とか大変ですから。理想を言えばですね、四畳半くらいのとこで死ねりゃええかなと。何でも手が届いて。で、潮風があって、海が見えて、船が通ってりゃいいかなあと。今まで70年間、とりあえず生きてきまして、ざっと引越しを5,60回してるんです。落ち着けないと言うのか。

佐木: 黒田さんはニューヨークに結構長くおられたじゃないですか。ニューヨークと北九州市、門司港には、何か共通点があるんですか?

黒田: 僕の独断と偏見なんですけども、ある切り口で言うと北九州はニューヨークと似てるところがあるんですね。今はどうか分からないですけども、基本的に色んな人が来た街じゃないかなと思うんです。僕は研究したわけじゃないですけど、肌で感じるんです。鉄工所があったり色んな工場があったり、石炭があったり、港があったり、しょっちゅう人が出たり入ったり。僕はモノって、動くモノがすきなんですよ。お金でも、僕はあまり貯めたことはないんですけど、僕なりに儲けたことは儲けたんですよ。全部通過しました。これからも通過させたろと思ってます。

街もそういう街が、やっぱり好きなんですね。そういう気配という意味では、ニューヨークと北九州は、僕の中で似てるような気がするんですね。これも北九州市の方にしかられるかも分かりませんが、雑駁な言い方しますと、ガラの悪いとこが僕は好きなんですよ。ニューヨークもありますよ、ガラのええとこ。ガラの悪いとこもある、というのが僕は好きなんですよ。風が通ってるというんですかね。

佐木: おっしゃる意味は分かります。アメリカ合衆国を象徴しているのが、やっぱりニューヨークですよね。

黒田: 最初はサンフランシスコに住もうと思ったんですね。サンフランで場所を決めまして、人付き合いも小賢しいこともしたんですけど、夢見ましてね。これほんとなんですけども。夢の中で、あの綺麗なサンフランの街の中を自分が歩いてるんですね。でも家が分からないんですよ。僕が僕の家が。それを僕が見てるんですね。こらアカンなと思いまして。速攻でニューヨークに決めました。 似合わないんです、サンフランシスコと僕と。

佐木: サンフランシスコと黒田征太郎が似合わないというのは分かる気がしますけど、ニューヨークと黒田征太郎と言うと、どうですか?

黒田: 似合いませんよね。似合わないと思います、ニューヨークと僕は。なんでニューヨークか、アメリカかと言いましたら、さっき言いましたけど、僕は1934年、昭和で言うと14年に生まれまして。黒田征太郎という名前は本名なんですね。征太郎の征は出征時の征ですから、そういう時代の子なんですね。

で、年端も行かないうちに、日本が敗戦しまして、進駐軍が入ってきて、進駐軍格好ええなあと思って僕は育った口なんですよ。それこそ、ギブミーチューインガム、神戸大阪間の阪神国道で何枚チューインガム拾たか分からない。まんま、僕はさっきも言いましたが親愛の情も込めて言う毛唐に憧れまして、できれば青い眼になりたいと。ほんまでっせ。茶髪になりたいと。ほんまに、ずーとアメリカに憧れて憧れて憧れましたね。それは、国家の形もそういうものだったと思います。小泉さんなんていう方もおられますが、あの人も僕らと同じ形だと思うんですよ。

佐木: 全く同じですよね。ちょっと小泉さんが後ですけど。

黒田: あの人見てると、あの人はいまだに引きずってるなと。まあ自分もそういうとこがありまして、ですから、今は職業は何だか分からないですけど、昔はイラストレーターとかグラフィックデザイナーという、それこそ野坂さんおっしゃる横文字稼業に憧れたんですね。いわゆる図案家になりたいとか、衣装をしたいとかじゃなくて、グラフィックデザイナー、イエス!っていう感じで、その延長戦上でニューヨークがあったんですね。

佐木: 北九州市は、いつ頃意識なさったんですか?

黒田: ひとつはですね、僕はほとんど家庭を知らないで育ったんです。父親は八つで死にまして。昭和21年。母親ともあまり一緒に暮らしていない。出自を調べたわけじゃないですが、親のことはあまり考えない人間なんですが、田川っていうところがありますね。あそこで石炭を掘る人だったんですね、親父は。おふくろは山口出身で芸者だったんです。三味線ひきで。小さい頃は、いつも三味線の歌が聞こえてましたね。妾だったんですよ、おふくろは。なかなかええなあと思うんですけどね。青春の門を真似してるんじゃないですよ。

それで、親父は毎日は来ませんよね。本妻がおりますから。親父の記憶というのは、親父は僕のことを「せいたろう」と言えない。「しぇーたろー」「しぇんしぇー」。そういうのがどっかであるんでしょうね。すりこまれたものが。ですから、まあ、関西の方から、こっち向かって博多なり北九州の方に来ると何か親しみが、ややありましたね。

で、親父は流れ者みたいなもので、少しだけ調べたほどじゃないですが、おじいさんはですね、若松港で石炭運んでいたらしいです。

佐木: おじいさんが九州で石炭を商っていて、今おっしゃったように、お母さんが妾であったとするなら お父さんはお金持ちだったんですね。

黒田: いや、そうじゃないんですよ。親父は単なる労働者として働いていて、おじいさんも、おじいさんというような人か分からないですけど...もっと言いましたら、僕は男親のほうは親戚が全然ないんですよ。

これは面倒くさいからあまりそうゆうことにこだわらないけど、多分朝鮮半島から逃げてきた人やろうと。この辺に流れ着いて、おじいさんはまあ、ごんぞうと呼ばれる人をやっていて、親父はなんだか分かんないけども、生まれてですね。だから、父方のおじいさんの女房、僕にとっては父方の祖母の顔は見たことがない。そういう話も出ない。

で、親父が田川かその辺で石炭を掘っていて、戦争が始まる頃に、憶測なんですけれども一山あてようと関西に出てですね。鉄工所作って、それがイケイケドンドン、戦争景気に乗っかってそこそこお金が儲かって、ミナミの宗右衛門町に繰り出して、そこで芸者をしていた私のママとですね、母親と珠玉の子を作ったのが俺という、ことですね。僕の中では、今言いましたように、何か血が騒ぐというほどのものじゃないですけどね、気が楽というかですね。こっちに向かうとね。

昔から、博多ばかり行ってたんですけどね、最初は。例えば飯塚に行ったり直方にも行ったりもしてましたけどもいつも日帰りで、やっぱり博多で。ツケのきく店があったというのもあるんですが。 いつか、北九州、小倉と思っていて、で、妙な縁で小倉に来て、その飲み屋でさっき司会をした眞鍋と誰の紹介もなく知り合うんですよ。僕は名刺交換で知り合うことをしないもんですから、それで眞鍋を踏み板にして。で、佐木さんが北九州の方だと野坂さんから確か紹介して頂いたんですが、その時から、多分佐木さん感じておられなかったと思いますけども、すごい僕の中で佐木さんに対して何だか勝手な親しみがあったんですよ。

佐木: いや、僕はね、「海燕ジョーの奇跡」っていう沖縄が舞台の本があるんですけど、あれがもう30年くらい前だったんですけども...

黒田: 最高ですね、あれは。

佐木: 黒田さんがえらい酔っ払って褒めてくれたんですよ。

黒田: 大好きです。読んでます?読んでます?佐木さんの「海燕ジョーの奇跡」。読んでみてください。 格好良いよー。あれは、優作がやったんですか。

佐木: そうですね、松田優作がやりました。

※正確には、東映が松田優作の主演で映画化を検討し、脚本も深作欣二に依頼していたが頓挫。1984年松竹富士配給の同映画は、主演・時任三郎、監督脚本・藤田敏八で制作された。

黒田: 出身は、この辺ですから。彦島ですから。そうなんですよ。

佐木: でも、あなたはね、僕が小説新潮に連載してるときに読んで下さってて。あれ、いいね~なんて。だけど、あなた酔っ払っておっしゃるから、多分あいつはいい加減なこと言ってるんだろうなと思ってたんですよ。

黒田: 分かります。いい加減ですもの。

佐木: でも、大真面目な話、ちゃんと読んで下さったんだなと思って、ありがとうございました。

黒田: あの、本当に琉球弧っていうんですか、沖縄から一人の人間がフィリッピンに入って血の記憶みたいなのを辿りながらも運命に翻弄されていくというお話で、すごい僕感動したんですよ。読んで下さい!佐木さん、本当にあれは素晴らしい。



佐木: それで、住民登録はどうなってるんですか。

黒田: これはですね、言ってしまいますけども、離婚しようと思ってるんです。相手はまだニューヨークにいるんですよ。この話をしだすと5時間くらいかかるんですけれども。なんと3回目の離婚なんですよね。こういう話も面白いからいいんですけど。人っていうのは、誰も離婚しようと思って結婚しないんですよね。別れようと思って好きにはならない。自己弁護うまいでしょ。

佐木: それはですね。私も離婚再婚をしておりますので、ノウハウは伝授しますので。今日は役所の方もお見えになっておりますので、それは置いておきまして。で、門司区に居を定められて、どんなことを今思っておられますか。

黒田: 昨日はですね、門司港からこの辺りまで、いろんな風景を見ながら、この隣でスタジオをやってる木寺というやつと知り合って、そのカメラマンの2人と歩きながら。ストイックな反戦文でもないんですが、やっぱ戦争ってつまんないよなと。人を殺したくないし、殺されたくない。というようなことでも、何かになるんじゃないという感じで僕が絵を描いて。

例えば、分かり易く言いますと、旦過市場ってありますね。旦過市場に行って、旦過市場のスケッチをするわけですね。で、旦過市場の現場で風景を写しこんで僕のスケッチを下絵を描いて、で、もいっかいその絵の上に、戦争の悲惨さと言うか、爆弾が落ちて火が燃えているようなシンボルを作ってもいっかい描くみたいなことをして歩いてましたり。

あるいは、僕はとりあえず黒田って職業何かって聞かれたら、分からないから適当に書いておいてよ、と言うけど、本当は、酔っ払いのじじいで絵を描くというふうに書いて欲しいんですけどね。それはつらすぎるんですね。もし喋らせて頂いた上でそういうと納得して頂けると思いますけども、雑誌なんかにそれ出たときはすごい嫌な感じ。だから、何でもいいよ書いておいてよと言うと、画家とか、アーティストとかですね、舌噛みそうな。じゃあいいよと、アーティストでも構わない、画家でも構わない。じゃあ画家ってなんなの、て思いますと、いわゆる今のアーティストや画家って皆銭ばっかり。いくらで売れたとか、有名ギャラリーで展示されたとか。はなはだしいのは、ニューヨークのモダンアートミュージアムで展覧会出来たら最高とか。それはそれでいいですけど、それだけじゃないやろと。もっと違うよと、いうことをやってみたいなと思いまして。

今は小倉の駅の近くのバーのカウンターをお借りしまして、ちょうど自分のニューヨークや大阪に作業場を持っているんですけど、そこの机と同じような幅だったので、ここで絵を描いていいですかと。そこのマスターは一日だと思われたんですね、いいよと。毎日行ってます。これは、隣の木寺さんのスタジオの横で拾った木に僕が描いて、これは、落ちてた鉄板を拾ってきたりして僕が描いたり。これは、長屋さんというバーにあった葉巻の空き箱なんですね。そういったものに描いたりしてですね、自然発生的に展覧会とは思わないですけど、絵てオモロイなあ、絵を描いてるっていうのは楽しいなというのを、ゆっくり出来れば。

僕、佐木さんね、日本に帰ってきてたまに聞きまして、すっごい悲しいと言うか頭にくるのは、自殺する人が多い。

佐木: 年間3万人以上。

黒田: 多分それは、お役所の発表が3万人だから本当は5万人くらいだと思うんです。それに対してやっぱり冗談じゃないと。奇跡的に僕ら生まれてきてると思うんですよね。精子と卵子の関係で言いましてもね。それがですね、自分で命を絶つ。そんな国かよ、と思うんですよね。

佐木: それは、先進国という言葉自体に括弧をつけなきゃいけないけれども、その中で日本だけみたいですよね。

黒田: ですよね。どんな国に行こうと、ベネズエラに行こうとどこに行こうと...、突如ベネズエラが出たんですけども、あの辺よく行くんで知ってるんですけど。やばいけど、みんな生きてますよ、一生懸命。だから、僕は何が出来るかわからないですけども、楽しいことって1枚の紙に線引くだけでも楽しいよっというのを腐ってるテレビに出てでも言いたいですね。テレビ関係者の方いたらごめんなさいね。

佐木: 私、フィリピンに何回か行っているんですけど、フィリピン貧しいでしょ。ものすごく貧しいでしょ。 ですけれども、フィリピンでは自殺がないんですって。

黒田: でしょ。変ですよ。だって、きれいな国ですよね、日本って。自動車はピカピカしてるし。スーパー行ったら万引きしようと思ったらいくらでも出来ますよ、ここ。飢え死ぬことはないと思うんですね。 だけども、なんで死ぬのかなあ。僕はお節介な男ですから、死ぬなよと。生きとけと、死ぬまでと思うんですね。...俺はカウンターが大好きですからカウンターでいこうかなと。全て実は佐木さんお見通しかと思うんですけどね。だいたい以上です。

佐木: これから北九州市民として長いお付き合いになろうかと思いますので、また黒田さんのお話というか本音をお伺いして、私はこの関係を続けたいと思っておりますので、黒田征太郎さんが北九州市民になって下さって、本当に嬉しくて嬉しくてしょうがありませんので、これからどんどんこういう風にお話を伺って、私なりにまた皆さんにお伝えしたいと思います。本当に今日はありがとうございます。

黒田: ありがとうございました!

<了>

■講演者プロフィール

ゲスト 黒田征太郎(くろだ せいたろう)
1939年大阪府生まれ。16歳で米軍LSTの船乗りに、その後バーテンダーをはじめ様々な職を経て、デザイナー見習いとなり、その後単身アメリカに・・・・。1966年長友啓典氏と{デザイン事務所K2を設立。イラストレーター・デザイナーとして広告界を席捲し多数の賞を受ける一方、マルチタレントの草分けとしてラジオ、テレビ、映画制作にも活躍。1992年再度アメリカに渡り、ニューヨークを拠点に絵を描きつづけた。そして911テロを目の当たりにし、大きなショックを受けた。「地球上に戦後は一回も来ていない。」と建築家 安藤忠雄、音楽家 近藤等則、写真家 荒木経惟とPIKADONプロジェクトを開始、ライフワークとして世界を舞台に展開している。永年のパートナー長友啓典氏によれば「破壊と創造」を念仏のように唱えながら突っ走る黒田氏の青春はまだまだ続く。


聞き手 佐木隆三(さき りゅうぞう)
1937年4月、北朝鮮の咸鏡北道に生まれ、41年暮れ関釜連絡船で帰国。広島県で国民学校2年生のとき、キノコ雲を目撃して敗戦。50年6月、八幡市立花尾中学へ編入学。56年4月、八幡製鐵所に入社したが、作家志望で27歳で退職して東京へ。『復讐するは我にあり』(76年)で第74回直木賞受賞。99年4月、関門海峡に面した高層マンションで暮らすため帰郷。北九州市立文学館館長、特定非営利活動法人 創を考える会・北九州理事。


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