「美術館についてのあれこれ」
講演 西村勇晴/北九州市立美術館 館長
聞き手 岩野俊郎/到津の森公園 園長
| 日時 | 2010年4月22日(木) 18時~20時50分 |
|---|---|
| 会場 | 井筒屋小倉店本館 8Fファミリーレストラン |
| 主催・企画 | 特定非営利活動法人 創を考える会・北九州 |
特定非営利活動法人 創を考える会・北九州主催「創造談議・北九州」は、地域と文化について多分野の最先端で活躍するパネリストをお迎えし、大いに語り合うシンポジウムとして、2004年から開催して参りました。
6回目となる今回は、2010年4月に北九州市立美術館館長に着任されたばかりの西村勇晴氏をお迎えし、これまで関わられた美術館設立のお話や、美術館に必要な思想などを聞かせていただきました。また、到津の森公園園長・岩野俊郎氏とのご対談では、岩野氏を聞き手としながら、文化施設と街や市民との関係についてお二人のご経験を交えて、お話し下さいました。
ここでは、第一部講演の内容を公開いたします。
■第一部 講演 西村勇晴/北九州市立美術館 館長
ただいま、ご紹介頂きました西村と申します。どうぞよろしくお願いいたします。さんざん新聞にも載りましたので、私の経歴はだいぶご存知の方もいらっしゃると思いますけれども、私は実は仙台生まれなんです。けれども8ヶ月程で、父親の故郷である門司の方にやって参りました。小中高と門司で育ちまして、それから生まれ故郷にどうしても戻りたかったものですから、仙台の大学に行って美術史を勉強して、それから、ちょうどその頃は、美術館の建設ブームだったのは私にとってはラッキーだったんですけれども、北海道の美術館建設の準備室に入りまして、準備室3年、それから館の活動を1年経験して、それから経験を買われて、今度は宮城で美術館を作るということで、宮城の方に移りました。
宮城県でも準備室が3年ぐらいありまして、それからずっと昨年定年退職するまで、宮城県美術館の方におりました。私はその他にも、宮城にいる間に、色々ないくつかの美術館の建設準備にも携わっておりました。美術館、博物館ですね。例えば、慶長使節船サン・ファン・バウティスタミュージアムというのが、石巻(いしのまき)という所にあるんですけれども、そこの展示の委員をやったりとかですね、それから、リアスアーク美術館という美術館が気仙沼(けせんぬま)という所にあり、そこにも少し携わったり、それから、塩竈(しおがま)という所に私立の菅野美術館というのがございまして、そこはもう最初から携わったりというふうにして、美術館建設に関わってきました。
そういう私の非常に個人的な経験から、今日はお話をしたいと思います。それがどれだけの普遍性を持つかどうか分かりませんけれども、しかし、そこではやはり美術館にとって大切なものというのがあるはずだろうと思います。
宮城県美術館の方が経験としては、大きいですね。つまり、北海道の時はもう先輩諸氏がおりまして、もうある程度形が出来ている時に入ったものですから、それほど、多くのことにタッチさせて頂けなかった。でも、宮城の場合は、本当に最初からなんです。ただ、基本構想というのが出来上がっておりまして、それをどう実現していくかという課題をつきつけられておりました。それは、ハードの面とソフトの面と両方なんですけれども。
ハードの面というのは、これは建築家と話し合っていくというところがありました。幸い宮城の美術館というのは前川國雄さんが設計でして、前川さんは、クライアントのことをちゃんと汲み上げて建物にしていくというタイプの建築家でしたので、色々な話をして、一緒に作っていったという経験をいたしました。
もう一つは、ソフトというのは、活動の面もそうなんですけど、一番大きなのはコレクションでした。というのは、北九州の場合は、前身に八幡市立の美術館がありましたので少し違うと思いますけれども、でも、その頃出来てきた美術館の大半は、コレクションが全然無いところから出発してるんです。ゼロからでした。これは、欧米では考えられないことですね。もっともロンドンのナショナルギャラリーのように開館した時は38点しかない、という美術館もありましたけれども、しかし、38点持っているわけです。ですから、コレクションも一緒に作っていく、ハードも一緒に作っていく、という経験をいたしました。
宮城の場合は、持っていた作品というのは、ちょうど美術館が1981年(昭和56年)の開館ですけれども、その100年前に宮城県が依頼して描かせた、高橋由一に描かせた油絵3点だけだったんです。その他ちょっとありましたけれども、それをいかに増やしていくか、ということでした。その頃は、90年代に美術館建設ブームがまたやって来ますけれども、その時の、90年代の時とは違いまして、90年代はちょうどバブルの時代ですから、莫大な何十億というお金を使って収集を出来たんですけれども、70年代の美術館というのは、例えば北海道にいた時は、年間の予算が、どれくらいだったでしょうか。1億あればいい方だったと思います。宮城の場合も同様で、最初は毎年1000万円くらいで収集してくれと言われ、とてもそんなんじゃ出来ないからということで、北海道並みになったという経緯があります。でも、これは日本の美術館の変な宿命みたいなところがあります。つまりコレクションゼロから始めるということですね。無理矢理コレクションを作っていくわけです。
美術館の建設ブームというのは、これは博物館も同じなんですけれども、ちょうど明治が100年を迎える1967年頃から、その記念の施設を作るという博物館の方から始まっていって美術館に移っていったという経緯があります。北九州の場合も、その流れの中におそらくあるだろうと思いますけれども、その頃、戦略的に海外の美術を買うというのを全国的に始めたんです。北九州はその早い例だと思います。ドガを買いました。一番華やかにそれをアピールしたのは、山梨県立美術館です。確か1970何年が開館だったと思いますが、ミレーを買いました。しかも、皆の知っている「種をまく人」を買いましたので、これはちょっとした事件になりまして、マスコミで言われたのは、宮城は何を目玉にするのですか?ということだったんです。コレクションというのはそうやって作っていくものだと、私は当時思っていましたけれども、振り返って考えると、それはちょっと違うんじゃないかと今は思っています。
しかし、現実的にはそうやって宮城は作っていったわけなんですけれども、では、開館までに一体何点必要かという議論をしました。展示替えを年間6回やろうと、6回でも多いんですけど、学芸員にとっては大変な負担なんですけど、6回やろうということを考えまして、6回だと1回100点展示するとして100点全部入れ替えることも考えると、最低限600点必要だろうということで、600点を目標にしたわけです。これは、幸いクリアー出来たんですけれども。
コレクションがない状態で、建物を作るわけですから建築家から言われたのは、展示室をどういう風にしましょうか、特別な形にしますか、それは出来ないわけです。コレクションがないわけですから。コレクションがあれば、これは、このコーナーにしましょうとか、この部屋にしましょうとか。そうですね、コレクションがあってそういう例が、近くでは福岡市の美術館が、黒田家のコレクションを最初から持って美術館が出来ていますので、黒田家の記念室があると。ああいうことが大半の美術館では多分出来てないんですよ。ですから、常設展示室といっても、非常にニュートラルな何が来ても展示出来るような展示室を作りましょう、ということになってしまいました。
日本の美術館の歴史を振り返りますと、今、博物館と名前がついてますけれども、東京国立博物館にしても、京都にしても奈良にしても、九州国立博物館は、ちょっと性格は違うかもしれませんが、博物館という名前でも実質は美術館なんですね。それくらい、日本の美術館の中では、東京国立博物館が一番古いだろうと思います。しかし、今ある美術館の大半は、1960年代以降に作られたものです。特に自治体立のものは。例外はありますね、私立で言えば大原美術館は1930年昭和5年の開館ですので、例外はありますけれども、大半は60年代後半以降のオープンです。 そして、だいたいが今言いましたように、コレクションを無理矢理作りながら、いわゆるハコモノ行政と言われますけれども、ハコモノから始まっているというのが現実でした。
後で知ったことなんですが、ドイツの場合は、1970年代に美術館の建築の建設ラッシュがありました。代表的なところで言うと、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークなんかが、宮城県美術館と同じ、 1981年にオープンしていますけれども、何が一番違うかと言うと、これはコレクションです。コレクションがあったか、なかったか、ということです。そういう意味で、日本の美術館というのは、ある意味では、少し歪んだ形で出発しているとは言えると思います。
美術館という名前で、実はもう一つ問題がありまして、美術館というのは、明治時代に上野の森で博覧会が開かれた時に、美術館が出来たんですけれども、その後、明治の末に美術家達が美術館を作ってくれと要望したりしたことがあります。そして、最終的にきちんと出来たのが1926年に、東京府美術館というのが出来ました。これは、北九州と非常に関係が深いんですが、若松の石炭王と呼ばれた佐藤慶太郎さんが、東京にお金をポンと寄付したことで出来上がったんですが、でも、それはコレクションを持たない美術館です。しかも、この中に美術家の方がいらっしゃったら、ごめんなさいと言いますが、公募展の会場としての美術館でした。これは決定的にヨーロッパと違います。
美術館という、アートミュージアムの本質を学ばないで、言ってみれば上っ面だけ真似てでも、やっぱりコレクションを持った美術館が欲しいということで、作ってきたのが1960年代末以降の美術館のあり方だったんですね。それも、さっき言いましたけども1点豪華主義と言われてもしょうがないように、海外の美術を買ってます。これは本当に果たして良かったのかと、今になって思います。なぜならば、数点あるだけという所が、やはり圧倒的に多いんではないでしょうか。点であって面になっていない。しかも、印象派以降の美術が主ですから、それはもう最近、非常に価格が高騰してなかなか収集が思うようにいかない。
金沢20世紀美術館の館長さんをされていた蓑さんという方がいみじくも言っていますけれども、ああゆうバカな買い方をしたのが日本の美術館を駄目にした、今苦しんでいるのはその為だとおっしゃっていますけれども。それを人寄せパンダと、私達を揶揄して言ってましたけれども。 そうゆうやり方をやって来たというのがあるんですね。
では、宮城の選択は、じゃあ何だったのかと言いますとそれは、カンディンスキーだったんです。私が入る前に決まっていました。カンディンスキーを買う。で、宮城に来てから、実際のところ、カンディンスキーは抽象画だ、抽象画というと、何を描いているのか分からないというアレルギーがもう完全にありました。それは、それだけではやっぱり美術館としては成り立たないだろうということでそれを20世紀初頭のドイツ美術まで、収集方針を広げて貰いまして、ですから、クレーを買ったりとか、そうゆうことをやってたんですけれども。これは、日本とも関連性が深いので結果的に良かったと思います。1910年代20年代のヨーロッパと日本の美術を一緒に並べることが出来ますし、今現在も並べています。それでも、まだ点でしかない。まだ広がりを持てていない、というのがコレクションの欠点としてあります。これは、時間をかけて充実していくしかないんでしょうけれども、これは無理ではないかなあと思っています。実際のところ。そういう風に思っていました。今も思っています。何故かと言いますと、カンディンスキーやクレーの作品はバブルの時に値段が高騰したまま価格が下がってくれていないんです。国際的にも非常に認知度が高くなっているので、これ以上また増やしていくのはなかなか至難の業かと思います。
コレクションの思い出の中からちょっと教訓的なことを言いますと、周年で、宮城はコレクションを充実してきたという経緯があります。5周年のときにカンディンスキー、10周年のときにパウルクレー。15周年のときにカンディンスキーの非常にメルヘン的な具象画なんですけど、「商人たちの到着」というのを買いました。価格は2億何千万かなんで、それが宮城で一番高い、市場の評価額として一番高い作品です。けれども、宮城県の場合は1億5000万円以上の買い物は、これはちょっと全国の自治体でも例外的なんですけど、1億5000万円以上というのは非常に高い方なんですけれども、だいたいのところは7000万から8000万を超えると議会にかけなければいけない。でも、宮城の場合は1億5000万円以上でした。議会にかけなければいけない、というので、そうゆう手続きをこれは美術館ではなくてむしろ本庁の方が一生懸命やって下さいまして、そして入手しました。
そういう、殊更のようですけれども、そういうこともありましてコレクションを作るというのは、やはり美術館の歴史を作っていってるんだなあということを思いました。そういう、変な感じで美術館というのが始まっているけれども、やっぱりきちんと館の文化、歴史を作っていってるんだという、考えを持ちました。これは、多分北九州でも同じであったろうと思います。その当時収集に携わっていた人達の思いは皆そうだったろうと思います。
ところで、日本の自治体立の美術館の悩みというのは、財源は皆税金だということです。ですから、景気が悪くなると、それがどんどん減っていくということですね。収集の場合も。海外の場合の羨ましいのは、いろんなところで、制度的に税制のところだとか、人々の意識の方もそうですけれども、特にアメリカは清教徒が先に入って作り上げた国ですから、働いて得た利益を社会に還元していくという考え方が一般的にありますけれども、残念ながら日本の場合は、まだまだそいういう風潮にはないですね。しかも、それを寄付した時の税制の問題も遅れています。
例えばフランスの場合は、作家が亡くなりますと、莫大な相続税がかかってきますけれども、その相続税を作品で納める、つまり物納制度があります。ルーブルにしてもオルセーにしても、勿論購入したのもありますけれども、大半は、印象派の良いところなんかは、カイユボットという作家が印象派の仲間の作品を買って収集していましたので、それを亡くなる時の遺言として、これは全部ルーブルに納めるようにという風にして入っているんですね。だから、そうゆう物納の制度が未だにあって、それで充実していっているけれども日本も確かに法律だと物納というのはあるんですけれども、美術品に関して言えば、指定品、重要文化財に指定されているものか、登録文化財として登録されているものしかないんですよ。そのほかのものはないんです。だから、昔院展の作家の奥村土牛(おくむらとうぎゅう)さんが亡くなった時に、息子さんが作品を全部燃やしてしまったというような、そういう悲劇も起こるわけです。
そういうこともあって、日本の美術館はどこも大変苦労しながらコレクションしている、ということが現実にあります。
それから、一般の方々もそういう現実をご存じないので、美術館が出来る、オープンします、新しく開館します、といった時にヨーロッパと同じような完成された姿を期待されるんですね。現実、私も言われたことがあります。宮城県美術館がオープンするんですか、ファン・ゴッホはありますか、ルノアールはありますか、と聞かれたことがあります。残念ながら、それはありませんとしか答えようがないですね。そういう風に期待されているところがあるんですが、それは応えようがない、実際のところはそれに叶う、皆さん方の期待を叶えていくことはなかなか出来ない。つまり、それは何度も言いますけれども、コレクションがないところから出発していることの悲劇なんですね。
でも、コレクションがコレクションを呼ぶということで、コレクションが出来ていくということもあります。つまり、ある一定の評価を受けたコレクションを作っていくとそれがコレクションを作っていくということもあります。
それは、私は非常に大きな経験をしました。宮城県の出身の作家で佐藤忠良さんという方がいらっしゃいます。彫刻家ですけれども、宮城県生まれなんです。私と同じようにですが、佐藤忠良さんの場合は、宮城県に6年いらっしゃいましたけども、青春時代を過したのは北海道なんですね。 けれども、宮城県の佐藤忠良さんに対する情熱というか熱心さ、熱意というのは半端なものじゃなくて、拝み倒して佐藤忠良さんから、彫刻が160何体か、それからデッサンが500点以上ですけれども、全部寄贈で頂きました。北海道の熱意に勝ったんです。北海道の方がちょっと出遅れたところもあって、宮城の方が勝って、それで1990年に佐藤忠良記念館というのをオープンさせました。
その時にですね、実は石膏原型も頂けることになりました。原型というのは、それを元にすれば鋳造が何体も出来るんですけれども、作品がですね、ブロンズの像が何体も出来るんですが、忠良先生は8体と決めていました。それは、作家によってはひどい作家もいて、一つの原型から、10体も20体も抜く、という方もいらっしゃるんですけど、商売になるから。でも忠良先生は8体と決めていました。でも10体までは許しましょう、ということで、そうすると、石膏原型がお金を生みますので、それで財団を作ったんです。記念財団。そこの事業で何をやったかというと修復家を育てています。彫刻の修復家を。これは、財団を整備していった時に、そこで育った修復家は、県の職員にしまして、美術館で雇って、修復をコツコツとやって貰ったんですけど。けれども、彼は東北芸工大の方に引っ張られていなくなっちゃいましたけれども。
そういうコレクションがあって、しかもきちんと非常にベーシックな仕事をしながら、宮城県美術館がですね、ここはほとんど自慢なので、自慢なんだなと思って聞いて欲しいんですけれども、そうゆう基礎的な仕事をちゃんとやってたんです。それから、修復という仕事もやっていました。たまたまですね、美術館講座というのがあってその講座で、絵本というものを扱った時に、福音館のその当時は会長さんをされてましたけれども、マツイタダシさんという方をお呼びして講演をして頂いた時に館内をご案内した時に、佐藤忠良記念館をご覧になって、ちょっと感じるところがあったんだろうと思いますが。
佐藤忠良さんという人は、皆さんご存じだと思いますが福音館の「大きなカブ」の原画の作者です。そっちを言うと皆さんビックリされるんですけれども、あれを描かれた方なんですが、そういう意味で松井さんは、佐藤忠良さんと親しい関係にあったところもあるんだろうと思いますが、でも、ベーシックな仕事を評価しています、ということでおっしゃって頂いたんですが、福音館に保存していた「子どもの友」の絵本原画を、作家の了解を得るところから始めましたけれども、全部無償で頂きました。枚数にして約1万枚あります。だいたい1枚15万円相当で、作家によってはもっと高いものもありますが、それは全部タダで頂いて、だいたい評価額ですと15万円で1万枚ですから、だいたい何億になりますか、15億くらいになるでしょうか、それくらいのものを全部無償で頂きました。例えば、「ぐりとぐら」とか「初めてのおつかい」という風に言えば、福音館の絵本と言うのは、ああ、ああいうものだなと思い出して頂けるのではと思いますが、それの原画が、今宮城県美術館に入っております。
そういうベーシックな仕事の評価というのは、とかく最近はされてないような気がします。それはとっても重要な事なんだろうと、今思っています。
実は、美術館、美術館と言っていますけれども、日本の美術館というのは、法律で規程されたものがありまして、博物館法という法律が昭和26年に出来た法律ですが、その中のひとつなんです。博物館なんです。博物館というのは、博物館法で言われている文化財を調査研究して、収集して保存して、それを公開して、それを元に教育普及活動をしていって、皆さんの利用に供する というのが博物館の役目なんです。でも最近は、どうもそこが忘れられているような気がします。
というのはですね、全国的に見ても最近は、非常に人が呼べる展覧会のオンパレードというのが、全国的に多いんじゃないでしょうか。展覧会として。うまく人を入れなさい、というのがあって、 それと、さっき言いました話題作りのコレクションの作り方もですね、美術館が博物館であるということを忘れさせている原因かもしれませんけれども、そういうところは、全国的に見てあるような気がいたします。
ちょっと堅い話ですけれども、社会教育法という法律がありまして、そこで博物館というのは、社会教育機関の一つとして規程されています。だから、明らかに美術館はですね、単なる施設ではなく、機関、インスティテューションなんです。機関というのは、やっぱりある目的を持って、ある組織がその目的を遂行していくという、組織ですよね。そういうものなんですね。ですから、本当は美術館も文化財、文化財となるべき美術品を調査研究して保存して、展示してということをそして、市民の利用に供するということを、やっていくのが一義的な仕事なんです。
展覧会というのは、これは仕方なくやっているわけではないんですけれども、美術館の場合は、その収集品だけでは補え切れないものを、これを広くやはり知って頂く目的で、言ってみれば教育普及の一環としてやっているんですけれども、でも、逆転してそれが主になっているところが多いんですね。全国的に見てますと。どこの館がということではなくて。しかも、学芸員があまり手をかけないで済むような展覧会というのも、いわゆる出開帳の展覧会が多くなっています。
博物館法もちょっと欠点がありまして、専門職員としては学芸員を置くとしか書いていないんです。欧米の美術館を見てみると、保存科学者、修復家がいたりしますけれども、そのほかに、ライブラリアン、司書がいたりします。そういうところがなくて、学芸員がそういうものを担っているところが多分大半だと思います。北九州の場合は幸いにして、ボランティアの方々が資料整理を手伝って下さっていますけれども、大半の美術館は、そういう人達がいなくて、館によっては一人か二人しかいない人が、庭にある噴水の整備までやらざるを得ないと、やっているような館というのも現実にはあるんですね。だけれども、美術館というのはやはり違うだろうと、そういう地道な仕事、基礎的な仕事をやっていってこそ本当は評価が定まっていって、それによってコレクションも増えていくことがあるんだろうと思います。
ちょっと話題を変えまして展覧会の話をいたしますけれども、北海道にいた時の経験なんですけれども、オープン展がミュンヘン近代美術展というのをミュンヘン、札幌、ミルウォーキーということで麦酒の産地で有名な、ということで札幌はミュンヘンと姉妹都市を結んでまして、そういうこともあって、ミュンヘンの近代美術を扱う展覧会をやりました。たくさん大勢の方が館に足を運んで下さいまして、ある時私は、そこはやはり北九州と同じように吹き抜けの空間がありますので、そこでお客さん達を見てて、この人達はここに来るのに朝何を考えてきたのかなとか、ふと思ったりしたんです。
後になってアメリカ人が学芸員のために書いた本で『博物館体験』という本があって、実は博物館体験というのは、お客さまが家を出る時、つまりあの展覧会に行こうと決めた時から始まっているだんよ、ということを書いているんです。そうすると、それだけの期待を持って行く人達をどうやって裏切らないようにするのか、ということを『博物館体験』の本では書いているんです。何に注意しなければいけないのか。つまり、例えばそのお客さんが美術館に行くためにどういう服を着ていこうかというところから博物館体験が始まっている。駐車場に着いた、駐車場はとめやすいのかそうじゃないのか、警備員の人達がいかめしくないのかどうなのか、というようなことをきちんと書いているんですけれども。つまり私が漠然とそう思っていたことを文章で読まされて、ああ、こうゆうことだったんだなと思ったんですけれども。
美術館がいかにしてお客さまを迎えるのか、特に展覧会が、一番不特定多数の人が入って下さいますが、それをいかにして迎えるのか、ということですね。そうすると、後々になって考えると とてもホテルに似てるなあと思うことがあります。それは、やはりお客さんに対して本当に親切に接しなければいけない。非常にわがままなお客さんもいらっしゃいますけれども、それでも、我慢して、我慢してという言い方は悪いですが親切に付き合わなければいけない。そうすると、展覧会の内容も、果たしておざなりでいいのか、ということですね。学芸員が手をかけないでやれるものだけでいいのか、という問題は一つあります。
それで、またコレクションと結びつく貴重な経験をしたことがあるんですが、それは、オルセー美術館で「マネとサン=ラザール」という展覧会を見たことがあるんです。それは、国際巡回展でして、オルセーとワシントンのナショナルギャラリーでやった2館だけの展覧会でした。数はそんなに多くありませんでした。けれども、その時に感銘を深くしたのは何かと言うと、お互いのコレクションを生かして国際巡回展をやっているんです。日本の今の美術館の展覧会のあり方というのは、一方的に海外から借りているだけなんですよ。こちらから返すものがない。けれども彼らにとっては実は、海外の美術館というのは経済的には難しい局面を今も迎えていまして、日本というのは良いお客さんなんです。お金を出してくれるから。館をリノベーションしたい時に、これを貸せば日本の美術館は必ずお金を出してくれる、そういう側面があるんです。それと、日本人はどうしても西洋美術に弱い、見たいという両者の利害が一致して、これだけの海外美術展がたくさん来ているんです。
しかし、これは今は海外の美術館は出してくれてますけれども、保存ということから考えると、これはもう長続きしないじゃないかと。おそらく。でも、お金が欲しい限りやるかもしれませんけれども、おそらく長続きしないだろう。そして、それをやっては本当はいけないだろうと思います。ただ、日本の美術館が本腰を入れて、海外の美術を入れた展覧会をやろうとした時に作品を借りられないケースというのは、非常に多いんです。それは、やはり展覧会のコンセプトが非常にあいまいであったり、本腰を入れていてもですよ、あいまいであったり、それから向こうにとって見返り、得るものが少なかったりすると、これは、やっぱり貸して貰えません。残念ながら。そういうことは、今まで自分達で展覧会を作り上げてきて私は海外展の経験もありますけれども、それは実感としてあります。
非常に忘れられない言葉があるんですけれども、1970年代もちょうど今のように、海外展がデパートで行われていたんです、次から次に。ほとんどこれは出開帳に等しい、出開帳じゃないのもありましたけれども、それに等しいものがあった時代があって、その時にイタリア文化会館の館長をされていたジョルジョ・デ・マルキスという方が、この方はイタリアの美術史家で、ローマの近代美術館の館長もされていた方なんですけれども、日本にはイタリア文化会館の館長として二度来られて滞在されていますけれども、その方と知り合って、日本の美術館の状況は良くないと。つまり、展覧会というのは、何故色んなところから集めてきて一つにするのか、それは、文化的な再創造でなければいけない。クリエーションということですね、再創造でなければいけない。少なくとも、イタリアの美術館はそういうことをやっている、ということで、強くおっしゃられたことがあります。それで、私達、11人の日本の学芸員を無理矢理イタリアに連れていったということがありまして、それは伝説の旅行になっているんですけど。学芸員の間では。その当時のですね。
やはり、展覧会というのはそういうものであろうと。それは何に裏付けられるかというと、やっぱり日頃の学芸員のベーシックな仕事が、それを裏付けているだろうと思います。再創造をしていくためには、美術館は、やはり博物館として調査研究という役割を忘れてはいけないし、それを地道にやっていくことが必要なんだろうと思います。それが、やはりまたコレクションを増やす、あそこの美術館があれだけきちんとしたことをやっているから、あそこの美術館だったら安心して預けられる、という信頼を勝ち得ることにもなるだろうと思います。
特に、収集に関して言えば、展覧会は、継続してやってますけれども、収集に関しては、これは継続していかなければ、本当は意味がない。残念ながら、北九州の場合は、非常に良いコレクションを持っているけれども、ある部分に関しては断絶があります。これは、後から埋めるには大変な努力が必要です。それは一塊として、その後を埋める努力は、当分はしないという方向で考えなければ無理なところもあるように思います。これは、まだちょっとした感触なんで、断定は出来ませんけれども、そういう側面があります。やはり、コレクションをきちんと充実させていることの方が展覧会はやりやすいです。それと、コレクションをきちんとしていることの方が実は、常設展も、ここではコレクション展という風に言っていますが、常設展も充実しています。これは、どこの館でも同じことが言えるだろうと思いますけれども。
展覧会にしても、常設展にしても、やはり同じ作品を使えば、いつも同じ見せ方ではなくて、何か新しい価値を見い出して、それに付加していけるようなことが出来ないかなと考えておりますし、 これは、大先輩であるトミヤマヒデオさんという学芸員の方からも言われたことがあります。佐伯祐三展の監修をお願いしたところ、今度の佐伯祐三展には、何か新しいことがあるのかね、と強く言われたことがあります。それはやはり学芸員も肝に銘じて、やはり何か同じことをやったとしても、新しく付け加えていくことをやらなければいけないだろうと思いました。
色々と美術館についてのあれこれと言いましたけれども、実は、美術館についてのあれもこれも何か喋りたくなってしまって、まとまりがありませんけれども、そういうところがあると思います。皆さん方に、やっぱりお願いをせざるを得ないのは、今お話ししましたように、北九州市の美術館は35年経ちました。よその美術館に比べれは遥かに大人です。けれども、まだ35年とも言えるわけです。まだコレクションは、ここも含めて全国の美術館は中途半端です。活動も、やっぱりまだ中途半端なところがあると思います。まだ手探りでやっているところも多々あります。美術館の熟成というのは、非常に時間がかかるということをご理解頂きたいと思います。
北九州市立美術館よりもちょうど150年前に作られた38点から始まったロンドンのナショナルギャラリーのコレクションというのが今ものすごく充実していますよね。あそこまでやっぱり持って行きたいと思いませんか、ここの美術館を。その頃、私達は生きていませんけれども、でもそういうふうにしたいですよね。少なくとも10年先20年先30年先に見た時に、やはり、どこにも負けないような、欧米と比べてもひけをとらないような、美術館にしたいと思っています。これは私はそう思っています。そういうある意味では、またここの美術館の歴史を作る立場に、そこの場に立てたということを非常に誇りに思って私は仕事をしたいと思いますので、皆さんもどうか長い目で見て、それはお叱り頂いても結構ですけれども、美術館はそういう状況にあるんだということもご理解して頂きながら長い目で見て、側面の援護をですね、皆さんと一緒に育てていけたらなという風に思いますので、どうぞよろしくお願いしたいと思います。
非常にあれもこれもになってしまいまして、つたないお話で非常に申し訳ありませんが、これで私のお話を終わります。
<第二部の対談へと続きます。>
■講演者プロフィール
西村勇晴(にしむら いさはる) 北九州市立美術館 館長
1948年仙台市生まれ。小中高校生時代を北九州市門司区で過ごす。東北大学大学院(西洋美術史)修了後、1977年開館の北海道立近代美術館、1981年開館の宮城県美術館に、それぞれ開設準備に携わり、開館後は学芸員として作品収集や企画展開催の任にあたる。2009年宮城県美術館副館長を退職。専門「ドイツと日本美術の交流史」。2010年4月より北九州市立美術館館長。
岩野俊郎(いわの としろう) 到津の森公園 園長
1948年下関市生まれ。1972年日本獣医畜産大学獣医学科卒業。1973年西日本鉄道株式会社到津遊園に就職。園長に就任した1997年に西鉄が閉園を決定するも、存続を望む市民運動が起こり同園は北九州市に譲渡される。2000年に到津遊園閉園、翌年西鉄退社。2002年市の外郭団体である財団法人北九州市都市整備公社運営「到津の森公園」としてオープン。初代園長となる。
≪ご協力・ご協賛≫
*今回の創造談議・北九州では、これまで同様に街の皆さんにご協力を頂きました。
ありがとうございました。
◇四宮 佑次様
タイトル横断幕を書いて下さいました。
1949年北九州市出身。写真家、また書家としても知られる。写真集「山頭火を行く」(ランダムハウス講談社/2006)出版を機に、小倉井筒屋パステルホールで開催された《それぞれの山頭火》展(2008年/共同企画 特定非営利活動法人 創を考える会・北九州)で画家・黒田征太郎と競演。日本のみならず世界各国で活躍している。
◇溝上酒造株式会社様 八幡東区景勝町1-10/093-652-0289
清酒「純米吟醸 皿倉」をご提供下さいました。
溝上酒造は、豊かな自然、豊富で良質の水に恵まれた皿倉山の麓でうまい酒造り一筋。「純米吟醸 皿倉」は、ふくよかな旨味とまろやかな口あたり、そして滑らかな喉越しが楽しめる冷酒。一年程度の熟成により味もしっかり出て吟醸香が香る。やや辛口だが飲み易く、幅広い料理との相性も良。